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楽山日記(by 自由)
興味深い記事がありましたので紹介します。

信者のブログを読んでみた (12時信仰論)
2013/2/24
 
「絶対的でないものを神と崇める愚 - 幸福の観測所」からたどって、ピッポさんのブログ記事を読んでみたが、コメント欄での対話は興味深く、おもしろかった。自分なりに思うところをつらつらと書いてみたい。
 
 
まず、(コメント欄の信者)もん吉さんの意見は半分くらいは同意できた。※赤字は信者のコメント
 
「ただねえ僕は、人間大川隆法を神とする人がいることをどうこういうつもりはないんだよね。人間の認識力には限界があるから、そういう信仰心の形を必要とする人もいるだろうから。(中略)観測所さんが、幸福の科学の一面を批判をするとしても他の人の信仰に対する配慮はするべきじゃないかなあ。」
 
わたしも、幸福の科学での学びが必要な人はいるのだろうから、そういう人にまでどうこう言おうとは思わない。そういう人は、そのまま精進したらいい。
 
けれども、幸福の科学での学びは終わっているのに、そこに足止めされて、次の段階に移ることができないでいる人には、「幸福の科学から出ることを怖がらなくてもいい」と声を掛けてあげたいと思う。
 
幸福の科学のよくないところは、いったん信者にしてしまうと、信仰の綱を手放すと地獄に堕ちるなどといって、教団内に閉じ込めてしまうところ。こういうところはまるで蜘蛛の巣や、蟻地獄の巣みたいだ。形式的には入退会は自由とされているけれども、心理的にはそういうわけでもないのが困る。
 
批判については、他の人の信仰に配慮すべきというのはその通りだけども、幸福の科学の信者がそれを言うのは虫がよすぎるのではないだろうか。
 
幸福の科学は日頃、他者を厳しく批判しているわけだから、因果の理法からいって、それと同じくらいに批判を浴びせられることはになるのは止むを得ないと思う。
 
次は、とおりすがりの会員さんの発言について。
 
「天国地獄があるか。わからないだって。それで、信仰は否定していないだって。ちゃんちゃらおかしいわ。」
 
この辺りは、信仰の問題というよりも、知的誠実さの問題でないだろうか。
 
妄信者であれば、天国地獄の存在を信じるがゆえに、「ある」と断言してしまうのかもしれないが、ある程度の知性がある人ならば、天国地獄の存在を信じていたとしても、その存在を客観的に証明できない限りは、「天国地獄の存在は信じているけれども、『ある』と断言はできない」と慎重になるのは当たり前かと。
 
「結局は、アンチや元会員を名乗っているアンチは、信仰の落ちこぼれよ。」
 
信者から見たらそう見えるのだろうけれども、わたしは退会することで信仰を守り抜くことができたと考えている。
 
信者時代のわたしは、大川隆法と神とを重ねてみていた。たとえていえば、時計の12時の位置に神があるとすると、大川隆法も12時の位置にあり、両者は重なって見えていた。だから、大川隆法を信じることは即ち神を信じることでもあり、何の問題もなかった。
 
けれども月日が経つうちに、大川隆法の位置は、12時の位置からズレて行った。あれよあれよという間に、1時の位置、2時の位置、3時の位置……とズレて行き、ここで心に葛藤が生じた。
 
大川隆法の位置が12時からズレるのに合わせるように神の位置もズラして行くべきか。それとも神の位置はあくまで12時に固定させ、12時の位置からズレた大川隆法は神ではないと判断すべきか。
 
わたしははじめのうちは、前者の立場を取ろう努力した。大川隆法の位置に合わせて、神の位置も動かし、両者を重ねて見ようと努力した。でも、どうしてもだめだった。神の位置を動かすことはどうしてもできなかった。それで結局は、12時の位置の神を信仰し続け、そこからズレた大川隆法を神とすることは止めて、信仰対象から外した。
 
つまり、わたしは、大川隆法の位置に合わせて神の位置を動かそうと試みた一時期を除いて、ずうっと12時の位置にある神を信じ続けているということ。今になって当時を振り返ってみれば、あぶない時期もあったけれども、なんとか信仰心を持ち続けられたとホッとしてる。
 
それだから、今の信者さんたちを見ると、すごく気の毒に思う。大川隆法の位置に合わせて、神の位置を移動させた結果、元妻や元弟子に対して悪口雑言したりするような人を根本仏と信じなくてはならないところまで来てしまっているのだから、これは本当に気の毒でたまらない。早く、本来の神への信仰心を取り戻してほしいと思う。
 
「そして、この禅宗の「大疑の下に大悟あり」か。これは、はっきり言えばこいつを言った奴は、悟ってないね。」
 
全然、ちがう話をするようだけども、わたしは以前、キリスト教を強く批判してた時期があったが、その当時、クリスチャンから言われたことを、いまだに覚えている。それは次のような趣旨のことば。
 
「キリスト教を批判するのはいいんです。過激な批判者だった者が、のちに敬虔なクリスチャンになる例も多くあります。批判するということは関心があるということの裏返しでしょうし、無関心よりはずっといいです」
 
このことばからすれば、「大疑の下に大悟あり」とは、「疑が大きく強いほど、悟りへの関心も強く深いのだから、それだけ悟りに近いといえるのだ」という風な解釈もできそうに思う。
 
大川隆法とその信者さんは、その全員でないにしても、他宗教の教えを軽んじる人がいるけれども、長く伝えられている教えには、やはりそれだけの含蓄があるわけだし、むやみに否定しないでその意味を調べたり、考えたりしてみてもよいのではないだろうか。おそらくは、その方が自分自身のためにもなると思う。

 
【転載元】楽山日記(by 自由)
 
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宗教団体「幸福の科学」に約二十年間在籍していた元信者です。幸福の科学が信者に見ないように指導している内部告発、退会者からの情報や意見を、現信者である親友Kさんのための参考資料としてまとめていこうと思っています。

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