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<このブログは宗教団体「幸福の科学」の様々な内部告発や退会者の方々の情報をまとめ現信者の親友Kさんに参考にしてもらうためのものです>
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獏 論 [幸福の科学アラカルト]より『虚業教団』(関谷晧元著)を全文掲載します。

※本文掲載につきましては著作者である関谷晧元氏ご本人より許可を頂いております。
 また本書籍をWEB上で閲覧可能にして下さった獏論氏のご尽力に心よりの感謝を申し上げます。
 
「『虚業教団』〈幸福の科学〉で学んだものは何だったのか」関谷晧元著(現代書林)

 第1章  ささやかな、けれども爽やかな第一歩
 
 大川青年との最初の出会い
 
 一九八九年(平成元年)の夏、私はロンドンに滞在していた。そこから東京の幸福の科学本部事務局宛に、一通の封書を出した。封書には、〈幸福の科学〉 への別れの挨拶ともいえる私の辞表が入っていた。 
 この別れに、淋しさがなかったと言えば嘘になる。 
 自分は 〈幸福の科学〉 を創りあげた一人である、という自負があった。人生を懸け、ともに歩んできた三年半。時間としては短いかもしれない。しかし命懸けでのめり込んできた日々は、私には長く、重いものだ。 
 それまで私は自動車販売会社を経営していた。同業者からも羨ましがられたほど順調だった会社を人に譲り、自社ビルは売却した。 妻子とも気まずく別れることになった。 主宰・大川隆法に強制されるかたちで、"神託結婚" もした。それでもまだ、人生を懸けたと言うにしては、三年半は短過ぎるだろうか。
 そのような会との別れは私の胸を締めつけた。                        
 しかし一方では、晴々とした気分だった。
 
 ロンドンの空は、連日爽やかに晴れ渡った。お世話になったイギリス在住の T さんによると、ロンドンでこんなに快晴が続く年は非常に珍しいという。抜けるようなその青空に似た清々しさを、私はー人噛みしめていた。 
 "これからは一人で充分だ。一人で修行を重ねていこう" 
 軽やかな陽射しを浴びながら、私はロンドンの街を、公園を歩きまわった。その心をさまざまな思いが心をよぎる。
 
 "幸福の科学は、ほんとうに幸福を科学したのだろうか。会員は幸せになれただろうか。職場や家庭で、彼らは真に素晴らしき人になり得ているのだろうか"
 "碓かに愛の理論はあった。だが、愛の実践はともなっていたか ……" 
 "会員を集めることに走り、最初の志を忘れてきたのではあるまいか" 
 東京にいたときも、繰り返し浮かんできた問いである。
 
 一ヵ月の休暇を無理やりもらってイギリスヘ渡ってきたのは、三年半の激務でボロボロになった体の治療が目的だった。それは、遠く離れて会を見つめなおすいい口実になった。遠くに立ち、胸にわだかまるいくつもの問いに答えを出したかったのである。
 一日置きに治療を受けに通った。そのあい間にハイドパークの公園へ出かけるのが、いつしか私の楽しみになっていた。陽射しに暖められた柔らかな芝生に体を横たえ、胸一杯に新鮮な空気を吸う。ちょうど日本の初夏のようで、あちこちに陽炎が踊っていた。 
 
 会で重責を背負っているときは、何かに憑かれたように、いつも忙しく動きまわっていた。自然とゆっくり接することもなかった。会の方針や自分のかかわり方についても、落ちついて考えるヒマもなかった。 しかし、こうして遠くから眺めてみると、大川隆法という人物や 〈幸福の科学〉 が次第に見えてきた。 
 絶対と信じ切っていたものが、今は陽炎のように揺らいでいた。 
 "私の辞表に大川先生は何を思うだろうか"
 そんな思いも幾度となくわいてきた。 
 私と大川隆法の最初の出会い。それは3年前にさかのぽる。
 ──
 
 正確な日付は忘れたが、八六年の確か四月下旬だった。 
 私はその日、新宿七丁目の割烹料理店「作古」の二階で、一人の青年と向き合っていた。青年は肉付きのいい体に背広を着て、座敷の上座に座っていた。彼の名は中川隆。後の〈幸福の科学〉主宰、大川隆法である。 
 当時は、総合商社トーメンの東京本社国際金融部に勤めるサラリーマンだった。東大卒、大手商社社員という経歴はエリートと呼べるだろう。その一方では、善川三朗編の「日蓮聖人の霊言』 『空海の霊言』 に登場する "霊能力者" でもある。しかし、その名前はまだ世間にほとんど知られていなかった。 
 エリート・ビジネスマンと霊能力。この取り合わせは、今までの宗教にない、新しい何かを感じさせた。 
 
 私もすでに、この二冊の霊言は読んでいた。むろん、現在のように書店にコーナーがあったり、ベストセラー入りすることもなかった。その頃、私が通っていたヨガ教室の先生に勧められ、何気なく手にしたのである。 
 じつに奇妙な本だった。日蓮や空海の霊が、大川隆法なる人物の口を借り、宗教の本質や天上界の様子を語って聞かせる。一種の霊界通信である。その内容は、現世的なご利益を求める従来の宗教とは明らかに違っていた。 
 事業がある程度成功し、お金には不自由ない生活の中で、当時の私は何か満たされないものを感じていたのだと思う。この本は、そんな私の心に強く訴えたきた。
 "宗教とは、こんなにすごいものだったのか" 
 素晴らしい精神世界の一端に触れた気がして心臓が高鳴った。 
 大川隆法に引き合わせてくれたのも、このヨガの先生、中原幸枝だった。 
「大川さんは大変な霊能力を持つ、偉大な先生なんですよ。」 
 彼女は常々そう言っていた。
 
 あの頃、中原は都内に二〇ヵ所近いヨガ教室を持っていた。何冊の自著も出版されていた。この世的な成功にも、異性にも一切目をくれず、一途にヨガの修業に打ち込んでいる彼女には、何か突き抜けたような爽やかさがあった。ひと言で言い表すなら"尼さん"が一番ピッタリかも知れない。整った顔立ちも手伝い、ヨガ教室のスタッフや生徒には男女を問わず中原信奉者が多かった。 
 中原は大川隆法を前にして、いつになく興奮していた。 
 だが私の目には、この小太りの青年はごくありふれた若者の一人としか映らなかった。これが本当にあの大川隆法なのか……。霊言を読み、どんなにかすごい霊能力者が現れるかと期待し、恐れてもいた私は少々意外だった。 
 私の会社の番頭格で、やり手の営業部長だった I とどこか似ていた。年長者の私をさし措き、平然と上座に座るところも I を思わせた。しかしそれも、この年代としては、まあ普通のことだろう。 
 私も、中原にならい、青年を「先生」と呼ぶことにした。 
 
 大川も中原も酒には口をつけなかった。私だけがときどき杯を口に運んだ。話の端々から、青年の頭のよさが感じられた。こういう人材を持った会社は、営業成績をぐんぐん伸ばしていけるだろうな、と私は思ったことを覚えている。長年営業畑を歩いてきた私は、有能な営業マンとしてバリバリ仕事している彼の姿を、すぐイメージすることができた。 
 仏陀の生まれ変わりである主宰先生を営業マンにたとえるとは何事か、と 〈幸福の科学〉会員には叱られそうだ。しかし、悲しいかな、これが長年の仕事によって培われた、私のカンである。 
 幸か不幸か、このカンは外れてはいなかったようだ。精力的な会員獲得戦略と、その結果として爆発的に増えた会員数を見れば、あのカンはまさしく的中したことになる。
 その年の男性にしては高い声で、大川青年は理路整然と澱みなくしゃべった。「先生の目は冷たい」というのが、私がいた頃の教団職員の一致した見方だったように記憶するが、そんな冷たさも感じなかった。笑うと、いかにも田舎の青年らしいはにかみが浮かんだ。
 
 私に失望があったとしたら、その目に "ある種の眼差し" が欠けていたことである。偉大な芸術家や霊能力者が持つ、奥行きのある神秘的な眼差し。残念ながら彼の目には、その眼差しがなかった。中原は「大変な霊能力」と言ったが、大川の前に座っていても、自分の一切を見抜かれてしまうような恐れは感じなかった。
 要するに、頭のいい、平凡な青年というのが私の第一印象である。 
 "そんなはずがない。あれだけすごい霊言をするのだから、私などには到底うかがい知れない何かがあるに違いない。きっと、特大の超能力者なのだ "
 そんなふうに考えてみた。"そんなはずがない。きっと‥‥" という思いを、私はこれ以降、三年半のあいだに何十回、何百回と抱くことになった。だが、あのときはそんなことなど思いもしなかった。 
 
 やがて、神理探究の学習団体をつくろうという方向へ話題は進んでいった。 
「大川先生には五〇〇人もの高級霊が降りてくるんですよ」
 と中原は言った。
「世の中の宗教団体は、そのうちの一人を神として拝んでいるんです。どれもこれも、ご利益をもらえると説く宗教ばっかり。私たちは新しい時代へ向けて、本当の神のみこころを学習する集団をつくりたいんです。是非、つくっていきましょうよ!」 
 座敷にいたのは二時間ほどだったと思う。 
 私が支払いを済ませ店を出ると、四月下旬というのに夜気は思いのほか冷たかった。しかし、そんなことなど気にならないほど私は高揚していた。神のみこころを学習する団体! ── この言葉を心の中で何度も繰り返しつぶやいた。 
 大川隆法、三〇歳。中原幸枝、年齢不詳。私が五一歳。三人ともまだ若かった。 
 この夜から、何かが動きだしたのである。
 
 
 六畳ひと間の事務所からのスタート
 
 大川の本を読み返してみると、八六年六月に諸霊から 「会社を辞めよ」 と勧告され、神理に生きる決意を固めたことになっている。四月下旬の 「作古」での話は、たぶん諸霊の勧告を迎えるための根回し、ということにでもなるのだろう。 
 中原幸枝が嬉しそうな声で電話してきたのは、しばらくたってからだった。 
「関谷さん、学習会の名前が決まりましたよ」
 彼女の声は弾んでいた。 
「大川先生の案で、〈幸福の科学〉 とすることに決まり、今日から会員募集に入りました。関谷さんも、会員番号を登録して一緒に学んでくださるでしょう?」 
 コウフクノカガクという言葉に少し戸感ったが、即座にOKした。幸福の科学、 なかなかいいじゃないか。宗教臭くないその名前に、私も好感を持った。 
 
「今度、入会申込み書に記入してくださいね。関谷さんの会員番号は一八番ですよ」
「エッ、一八番? もう、そんなに大勢入ったんですか」
 正直に言うと、たった一日で一〇人も二〇人も同志が集まるとは思いもしなかった。しかし考えてみれば不思議ではないのだ。中原の周辺には、その人柄や考え方を慕う人たち が大勢いたのである。 ヨガのスタッフや生徒がその後も続々と参加し、会はたちまち一〇〇人にも膨れあがった。 
 今あらためて 〈幸福の科学〉 の順調なスタートを振り返るとき、中原幸枝の道を求めるまっしぐらな熱意によるところが、いかに大きかったかを痛感する。彼女の純粋で強烈な求道心。良くも悪くも、それがまわりを巻き込んでいったのである。 
 
 大川の霊言を読んで参加した山田篤、安岡一男のような人たちもいた。 しかし全体としては、大川隆法の会というより、中原が中心の会という感じがあった。ただ中原は、「大川先生、大川先生」 と最大限の敬意を込めて持ち上げていた。
「中原さんがあれだけ尊敬するのだから、さぞかし立派な先生だろう」 
 初期の会員の多くは、おそらくそんな気持ちだったのではないかと思う。 
 ここに陥穿があった。 
 
 中原や私が望んだものは、信仰に凝り固まった宗教団体ではなかった。私たちは学習の場をつくろうとしたのである。 大川隆法という宗教的天才を先生として、歴史に現れた神の理法を学び、実践していく 学校。 そう、学校だ。霊言や 「作古」での話し合いから、私はそんなものをイメージしていた。 この点では、少なくともその言葉を信じるかぎり、大川の考えもそんなにかけ離れたものではなかっただろう。 
「幸福の科学は、いわゆる宗教にはしたくない」 
 ハッキリと彼は断言していた。しかし私たちは、中原の大川賛美を無条件に受け入れることで、個人崇拝への道を敷いてしまったのではなかったか。 自分の写真を宗教法人〈幸福の科学〉 の本尊とし、自らを仏陀の生まれ変わり、宇宙の最高霊エル・カンターレであると称するような、ある種の "狂気" に道を開いたのではないか。 
 
 仏陀は涅槃に入る前に、弟子たちを集め、「これからは人を師とするのでなく、法を師とせよ」 と説かれた。慙愧の念なしに、私はこの教えを思い出せない。悪評を買った九一年の "御生誕祭" に、「星の王子さま」 さながらの姿で演壇に登場したエル・カンターレ。冷やかし半分のテレビでそれを見せられ、複雑な思いを味わった人も、初期の会員には多かったに違いない。 
 だが当時、そんな日がやってくるなどと誰が想像しただろうか。
 
 その夏、中原は軽井沢にある父親の別荘へ大川を案内した。すでに大川は七月半ばで トーメンを退職していた。中原家の別荘で、大川は 『正心法語』 『祈願文』 の二つを書きあげて戻ってきた。覚えやすい七五調の現代語で会の指針を説く 『正心法語』 は、今でも会の「お経」になっているはずである。 
 
 ── 大宇宙に光あり 光は神の命なり 
      命によりて人は生き、命によりて歴史あり 
      命は永遠に不変なり …… 
        (とわ)
 
 言葉は今でもスラスラ口をついて出る。学校の校歌みたいだと、意地の悪いことを言う人もいる。しかし私たちは、そこに霊性時代の幕開けの声を聞いたのである。
 指針は示された! 
 誰もがワクワクしていた。特に若い会員は熱っぽく語り合い、イキイキと働いた。彼らの手で、 『正心法語』 『祈願文』 はワープロ打ちされ、コピーされ、紐とじされて、表紙には金色のスタンプが押された。 
「手作りのこの二冊が、将来はとても価値あるものになるのね」 
 誰もが中原のそんな熱意に動かされ、喜んで作業に励んだ。新しい価値を自分たちの手で創り出しているのだという感動を、みんなが共有していた。そしていつの間にか、この会なしに神理の探究は不可能である、と思い込んでいったのである。 
 
 最初の事務所は、杉並区西荻窪にある中原の自宅を改造した六畳一間だった。中原は改築のために、なけなしの貯金をはたいた。デスク代わりの小さな ちゃぶ台がーつに、茶碗が五、六個。部屋の一部がカーテンで仕切られ、 そこで大川が相談者の話を聞くことになっていた。 
 そこに息苦しいほど籠もっていた若者たちの熱気を、私は懐かしく思い出す。
 
 
 八六年十一月 ── 発足記念座談会
 
 いよいよ会として、第一回の会合を開くときがきた。 「幸福の科学発足記念座談会」がおこなわれたのは、この年の十一月二十三日である。場所は、中原ヨガの教室があった日暮里の酒販会館。後の 〈幸福の科学〉のイベント会場が、あの東京ドームであることを考えると、いかにも慎ましく、ささやかな出発だった。 
 私は大川と中原をクルマに乗せて会場へ向かった。不慣れな道のために、予定時間を少しオーバーして到着した。はじめての会合を前にして、大川は不安だったようだ。テープに霊言を吹き込むことはあっても、大勢を前にして話す経験はなかったから当然だろう。気持ちを落ち着けたいという大川の提案で、三人は喫茶店で一服してからビルの四階にあるヨガ教室へ上がった。 
 
 会場は、会員の手できれいに飾りつけられていた。手作りの暖かさに私はホッとし、会の成功を確信したのを覚えている。
 左端に屏風が立ててあり、大川と中原はその陰へ入った。ビデオ録画を担当することになっていた私は二人と別れ、聴衆の後ろから演壇ヘカメラを構えた。 
 そこには、七、八〇人が集まっていた。 
 まず司会役の中原が登場し、開会の挨拶をした。
 彼女はかなり緊張し、アガっているように見えた。最初は言葉もしどろもどろだった。しかし最大級の賛辞で大川を紹介することは忘れなかった。内容はもう覚えていないが、 一つだけ強く印象に残っている言葉がある。 
 
「大川先生が誰の生まれ変わりか、いずれわかるときがくると思います」 
 中原の紹介を受けて、大川本人が登壇した。 
 いよいよ大川隆法先生の第一声。霊言集の偉大な霊能力者が何を語り出すかと、聴衆は固唾をのんだ。カメラを支える私の手も思わず力が入った。 
 大川主宰は、しかしアガっていた。少なくとも私にはそう見えた。後に何千人、何万人を前にして堂々と演説する大川の姿ではなかった。話がどこか上滑りしている。誰も笑わないような冗談を言って、一人おかしがっている。 
 「炎を見て、モーゼは炎を見て火事だと思うんですね。でも一一九番できないんですね。電話がないから …… アッハ、ハ」
 人間ならアガりもするだろう。私はむしろ、そんな大川隆法に親しみをおぽえる。 
 その日は、GLA 教団の教祖である故・高橋信次の霊の指導を受けて講演すると、前もって間いていた。生前の高橋信次の講演は、私もよくテープで聞いた。早口だが、張りのある高橋の声は、言霊(ことだま) と呼ぶにふさわしい威厳とパワーに満ちていた。 
 テープで聞く高橋の早口を、大川はマネしているように聞こえた。 
 
 "おかしいな" と私は思った。"霊言を収録するときは、信次先生の魂が大川先生の肉体を自由に支配するのだから、ここでも、そうされたらいいのに。 霊言と指導が違うなら、なにも信次先生のように早口になる必要はないと思うけれど ……" 
 心の中でこうつぶやいた。
 "やっぱり、大川先生ご自身のお考えで話されているのかな"
 しかし講演の内容は素晴らしく、誰もが霊的世界を実感できるようなものだった。 
 
 会場には、やがて 〈幸福の科学〉 の局長となる細田勝義、大沢敏雄らもいた。後に四代目の活動推進局長になる大沢が最後部から、熱血漢らしい質問をぶつけていたのを思い出す。創価学会の会員集めに辣腕を振るったと言われ、〈幸福の科学〉 でも八九年からの拡大路線では強力な推進力となった人物である。
 その大沢が、「リュウホウ先生、リュウホウ先生」としきりに発言した。 
 それまで "大川隆法" は、大川タカノリであった。本にもそう書かれていたし、私たちもそう呼んでいた。しかしこの日の大沢の発言をきっかけに、タカノリはリュウホウに変質していったのである。 
 ともかく、発足記念座談会は成功に終わった。帰りはレストランで食事し、今日の話題に花を咲かせた。大川も中原も私も一様にホッとしていた。これから楽しいことがはじまりそうだ …… 私は嬉しくてしかたなかった。
 
 
 仕事を捨てて〈幸福の科学〉へ飛び込む
 
 私はまだ 〈幸福の科学〉 に夢中というほどではなかった。 
 当時私は、世田谷の環八通りに自動車販売会社を持っていた。一九六七年の三月三日に、ほとんど無一文でスタートしてから一九年。 一度の赤字もなく、順風満帆で伸びてきた会社である。二年前にはそれまでの借地を買い、四階建ての自社ビルも新築した。 
「どうしたら、関谷さんみたいになれるかね」
 仲間からはいつも羨ましがられていた。
 ビルもさることながら、小さいながら楽しい職場であることが私の誇りだった。お客さんも、友人の家のようによく遊びにきてくれた。 
 "次の三月三日は、二〇周年記念だ。関係者を呼んでドーンと花火を打ち上げてやろう"
 そう思ったとき、私の心はすでにーつの決意を秘めていた。
 
 三月三日、二〇周年記念パーティの当日。青山ダイヤモンド・ホールで開いた祝賀会には二〇〇人もの人が集まった。その中に大川隆法と中原幸枝の姿もあった。自動車業界の社長さんたちは、まだ無名の大川隆法には当然目も留めなかった。パワフルな実業家たちの熱気あふれる中で、二人はやはり異色だった。二人がたたずむそこにだけ、静かな、清涼な空気が漂っているように見えたものだ。 
 パーティーは愉快に楽しく進行した。琴とバイオリンの二重奏あり、木遺り歌あり。木遺り職人のショーには、取引銀行の支店長が飛び入りもする盛り上がりだった。 
 最後に、感謝の意をあらわすために私が壇上に立った。 
 
「みなさんのおかげで、我が社もここまで成長することができました。ところで、私にはこの人生でもう一つやってみたいことがあります。残りの人生は、それに打ち込んでみようと思います。
 誰も予期しない爆弾発言だった。 
友人や知人、業界仲間は一斉に驚きの声をあげた。順調な仕事を放り出し、五〇男の関谷が、いったい何を始めるのか ──。 誰もが不思議がった。この人生でもう一つやってみたいこと。それを明言したら、驚きはさらに大きくなっただろう。
 振り返ってみれば、経済的安定のみを求めて生きてきた私の半生である。その結果、ひと通り必要な財産は造りあげた。豪邸とはいかないが、そこそこの住宅を建て、四階建ての粋な自社ビルも持てた。人間関係にも恵まれたほうだろう。 
 "これで充分さ。このうえ何がほしいんだ"
 何度も自分に問いかけた。 
 
 当時の私は、互いのわがままから妻や子供と別居し、別々に生活していた。
 "気楽な独り暮らしじゃないか。金もあるし、ある程度の社会的地位もある。男なら、一度は夢見る生活だぞ。何が悲しくて、居心地のいいポジションを投げ捨てるんだ"
 私の 「常識」 はそうささやいていた。 
 しかし、私にはこの人生でもっと大切な仕事が待っていると感じられた。その仕事を成し遂げるために、今までの幸せが与えられていたのではないか。妻や子供との別居さえ、そういう天のはからいではないのか。 
 
 二〇周年記念パーティーでの爆弾発言の裏には、こんな自問自答があった。 
 私は決して空想的な男ではない。地に足のついた生活をしてきたし、現実的な人間関係を何より大切にして生きてきた。だが心の底には、この現実を超える素晴らしき価値が、必ずどこかにあるはずだという漠然とした思いがあった。
 顔を出してみた宗教団体も、今までに二つほどあった。けれどご利益専門の宗教は、弱い人間の集まりとしか思えない。私が求めるものはそこにはなかった。 
 漠然とした思いが、〈幸福の科学〉 の創設に加わることで急にハッキリした形をとり、私自身にも信じられないほど膨らんできたのである。
 
 この年、八七年は 〈幸福の科学〉 の胎動期だった。 
 活動推進委員が選ばれ、委員を中心に会の基礎造りがおこなわれた。委員に任命されたのは、前田節、細田勝義、高橋守人(後に退会)、太田邦彦(後に退会)、そして私の五人である。そこに、秘書室長の中原幸枝を加えた六人が、大川主宰を囲んで会の方針を話し合った。〈幸福の科学〉 は次第に形を成していった。 
 お気づきのように、中原と私を含めた初期の幹部六人のうち、すでに四人が退めている。四人という数が多いか少ないか、私にはわからない。しかしホンモノの神理なら、どうして苦楽をともにしながら会をつくりあげた仲間の半数以上が去っていかなければならないのか。これでは大川が豪語するように、すべての日本人を会員にするなど到底不可能だろう。不可能というより、誇大妄想と呼ぶほかない。 
 
 この時期、私はメルセデス・ベンツの新車を購入した。もちろん、会の活動に役立てるためである。講演会のたびに主宰の送り迎えをし、徳島在住の顧問・善川三朗の上京に際しては、羽田からホテル、ホテルから会場へと文字通り大車輪の活躍だった。
 そのたびに私が運転した。人間とは面白いものだと、つくづく思う。何が人生を変えてしまうかわからない。このベンツが、私を全面的に 〈幸福の科学〉 へと走らせるきっかけの一つになったのである。
 何を求めて私はあんなに走ったのだろう。 
 かつて自社ビルの工事が始まり、クレーン車が最初の鉄柱を目の前で設置したときも、その夜の棟上の宴席で仲間におだてられたときも、特別嬉しいとは感じなかった。ニコニコ顔で酒をついでまわりながら、心のどこかで強く思っていた。 
 "これが何だというのだ。おれの一生は、こんなことのためだけにあるんじゃないぞ "
 二〇〇〇人いる東京の同業者のうち、自社ビルまで建設したのはたった三人と言われていたのに。
 
 
 真摯だった発足記念講演会
 
 予定通り、徳島から善川三朗顧問が上京してきたのは、会社の創立二〇周年パーティーが終わって三日後、三月六日のことだった。その二日後には、 "幸福の科学発足記念講演会" が迫っていた。
 ここで、大川主宰と善川顧問の関係に触れておかなければならない。
 すでにお話ししたように大川隆法の初期の霊言集は、大川の著作としてではなく、善川三朗編として上梓されている。善川と、大川の兄にあたる富山誠の質問に、大川に降りた日蓮や空海の霊が答えるという問答形式である。
 世間では、霊言がホンモノの霊の言葉なのか、それとも大川の言葉なのかを取り沙汰している。だが、私にはどちらでもよかった。この点では中原幸枝や、ほかの初期の会員より醒めていたのかもしれない。
 
 霊の言葉か自分の言葉か、たぶん大川隆法自身にもわからないだろう。
 霊言集には、これまでの聖人の教えやその意義が、まったく新しい角度から光をあてられ、万教帰一、ただ一つの神理という視点で、わかりやすく書かれていた。この世的な価値である金とか名誉、地位を超える壮大な霊的世界! それで充分だった。大川隆法を先生と仰ぎ、素晴らしい神理をもっともっと学んでみたかったのである。
 
 ところで、〈幸福の科学〉 に関心をお持ちの方はご存じと思うが、善川三朗というのは大川の父、中川忠義のペンネームである。 富山誠は兄の中川力にあたる。
 理由はわからないが、大川は意識的にこの事実を隠していた。親子ではあまりにも世俗的だ。四国のどこかで、たまたま善川が出会った不思議な霊能力者。そんな神秘的な演出がねらいだったらしい。このことは、大川のごく身近にいた私たちでさえ、しばらくは知らなかったぐらいである。
 
 八七年九月に一通の手紙が私の会社へ送られてきた。差出人は、「幸福の科学」拝読者となっていた。
 「大川隆法という人物が同じ四国出身というだけで素性がわからないことに、『不思議だなぁ』 と思い、『人の魂を救う者がそれで責任が果たせるか』 と思っていました。また、『大川隆法』 という人物と 『善川三朗』 そして 『富山誠』 のこの三人がいかにも劇的な出会いをされたかのように言うが、それはほんとうだろうか」
 
 疑問を抱いた拝読者氏は、労もいとわず大川の身元を調べ、その結果を驚きとともにこんなふうに書いている。
「私も驚きました。本当に親子だったのです。なぜ心・魂等を説く人間が自分の素性を隠して、実の父と子であることを隠してこんな芝居をする必要があるのでしょうか」
 さらにご丁寧にも中川家のあまりかんばしくない近所の評判まで書いてある。
 会が大きくなれば、当然こんなことも起こってくる。大川も善川も、霊言集の出版を思いついた頃は、今日のような大教団をつくるなどとは考えもしなかったのだろう。それで、二人の関係を劇的に、神秘的に創作してみた。たぶん、そんなところだろう。
 
 話をもとへ戻そう。
 中原幸枝に依頼され、講演会の二日前に徳島から上京した顧問を羽田に出迎えた。
 純朴な田舎の老紳士、というのが善川三朗に対する私の印象である。このおっとりした先生が、あのようにすごい神理の本を善かれるのか。それが、私にはひどく嬉しかった。さすがにホンモノは淡々としていると感じ、いっぺんに好きになった。神理を求めたから、このような偉大な先生と直接お話しすることもできる。 [写真39]
 そう考え、自分はなんという幸せ者だろうと感謝した。
 私は大喜びで料理屋へ接待した。
 "明日は、中原の自宅にできた事務所も見ていただこう。その次の日は、いよいよ記念すべき講演会だ。いったいどんな講演会になるのだろう"
 楽しさで胸がワクワクしていた。
 
 
 〈幸福の科学〉に集う純真な求道心
 
 一九八七年(昭和六十二年)は、〈幸福の科学〉 が本格的活動を開始した年である。
 この年は、牛込公会堂での第一回講演会をかわ切りに、講演会が確か五回、合宿による研修会が二回、ほかに上級、中級、初級セミナーが計画、実行された。四月からは会の月刊誌も発行されている。
 中原幸枝はまさに八面六臂の大活躍だった。ヨガスタッフの山田篤、中村恵子(後に退会)、五十嵐真由美、安岡一男 (本年退会)などが、中原の手足となって献身的に働いた。会場の手配、会員への連絡、パンフレットや機関紙の編集・出版の作業に、喜々として取り組む彼らの姿は私にも気持ちのいいものであった。  
 
 しばらくすると、阿南浩行(後に退会)、高橋秀和、福本孝司(後に退会)、河本裕子といった初期の優等生たちが読者の中から現れた。
 なかでも、阿南は二八歳という若さながら霊的に非常に覚醒していた。仏教やキリスト教など宗教全般に詳しく、大川の霊言集に関してはどんな角度からでも、理路整然と解説できた。理論では会員中随一だったろう。一部上場企業の社員だったが、上司が止めるのを振り切って退職し、会の活動をしてきた。
 純粋な求道心を持つ中原とはウマがあったようだ。
 
 大川は、この阿南を釈迦の十大弟子の一人、アーナンダ(阿難)の生まれ変わりであると宣言していた。釈迦が亡くなるまで二五年間にわたって師につかえ、最も多く教えを聞いていたことから、「多聞第一」 と呼ばれたのがアーナンダである。仏典結集に際しては、亡くなった師の代わりに教えを語って聞かせたとされている。
 
 不思議なことに、阿南も霊言集の編集に携わっていた。テープに吹き込まれた霊言を文字にし、整理する仕事であるが、これは阿南と中原だけがタッチすることのできる最重要の仕事だった。
 しかし、このアーナンダはある事件がきっかけで、間もなく 〈幸福の科学〉 を去った。もし大川と阿南が、大川主宰の言う通り、真の仏陀とアーナンダだったとしたら、どうして袂を分かつなどということがあっただろうか。この事件は、中原と私の心に深い傷を残した。いや、当時の会員すべてに、言いようのない衝撃を与え、大川主宰に対する疑念を生じさせたのである。
 事件については、もう少し後に譲ろう。
 
 阿南についてだけでなく、事あるごとに大川は "生まれ変わり" の話をした。私はといえば、中国の天台開祖・智の高弟の一人を、前世として大川から頂戴した。もっとも私には、そんなものはどうでもよかった。大切なのは現在である。
 しかし後に、大川夫妻のあいだに誕生してくる子が、天台智の生まれ変わりだと聞かされたときは、前世話のご都合主義にさすがに首をかしげた。
 
 阿南より少し遅れて、やはり本がきっかけで高橋秀和が参加してきた。実直で、とくに事務処理には大変たけていた。おかげで、会の仕事はテキパキと進んだ。会議録の整理、レジュメ、マニュアル作りをさせたら天下一品。ただ、あまりにも狂信的で、融通が利かず、頭の固いところがあった。
 最も初期の仲間には、いなかったタイプの人物である。後日、阿南事件が起こると、阿南の電話をすべてメモし、主宰先生に逐一注進に及ぶという実直ぶりを示した。大川は、高橋を十大弟子の中でも筆頭格のマハーモンガラナー(大目蓮)と呼んでいた。
 
 新しく参加した阿南や高橋が厚遇される一方で、発足記念講演会で開会の挨拶をした太田邦彦などは冷遇されていた。前世の話でも彼一人が除け者にされた感じだった。
 「あなたはまだまだ霊格が低い。この人たちは後から来たけど、あなたよりずっと魂が大きいんだ」
 大勢の前で大川が太田をやり込めたことがある。しかし今にして思えば、太田という人は、大川を神格化しようとする人たちと一線を画していたにすぎない。それが主宰先生には気にいらなかったのか。結局、太田は最も早い脱会者の一人になった。
 
 こうした話を聞いて、ワンマン社長が牛耳る中小企業を連想する人がいても不思議はない。つまり、どこの集団にもある人間関係のさまざまなトラブルや軋轢が、ここにもあったということである。その意味では、現実世界を超越した集団でもなく、〈光の天使〉の集まりでもなかった。
 それどころか現在の宗教団体は、はかのどんな集団よりも、露骨に権力や金の問題が現れてくる、極めて世俗的な場所であると言ったほうが正しいだろう。
 だが、ここでお話ししている最も初期の段階では、そうした問題もまだハッキリとは現れていなかった。専属の職員など一人もいなかったし、一般会員から区別されるような幹部も存在しない。言い換えれば、全員がボランティアだったのだ。
 
 昼間は会で働き、夜はアルバイトする。そんな会員たちの情熱が会を支えていた。
 誰もが新しい時代を予感しつつ、神理を学ぶことを第一の目的と考えていた。
 八七年の五月、第一回の研修会が催された。琵琶湖湖畔のホテルでの三日間にわたる研修会には、一一〇名の参加者があった。
 研修会は後に、講師を養成する場所となっていった。三日間は、講義とディスカッション、意見発表の連続だった。それは、素晴らしく、そして楽しかった。大川主宰や善川顧問に親しく接し、神理を学べることが嬉しくてならなかった。
 もっと学ぼう、もっと学びとろう。参加者のそんな思いが最高潮に達したところへ、あの最終日がやってきた。
 
  第一回研修会における大川隆法の最終講義は、〈幸福の科学〉 では、今日でも語りぐさになっている。『正心法語』の解説だったが、それは力強さと格調に満ちていて、私たちの心をワシづかみにした。高級神霊が語るとはまさにこれなのか。朗々と響く 大川の声に圧倒されながら、私はそう思った。
 その時まで私たちはまだ比較的冷静で、大川を見る目もどちらかと言えば客観的だった。神様あつかいしたり、妄信していたわけではない。しかしあの講義は、私たちの心に何かの火を灯したのである。
 
 私たちは魂を深く揺さぶられ、感動を通り越してほとんど呆然自失していた。
 そのときの大川の言葉を引いてみても、私の筆力では、その感動の万分の一も伝えられないのがもどかしい。
「我々は一致団結し、霊性時代の新しい価値をつくり出さなければならない。ここに集まっているのは、そのために目覚めたエリートなのだ。いまだに物質欲や金銭欲に縛られているほかの人間とは違う。素晴らしい時代をつくっていく、光の天使である」
 私たちは、天の進軍ラッパを聞いたのである。
"我々の手で新しい霊性の時代を樹立する! ここにいる一人ひとりが、みんな光の天使になって世の中を変えていくのだ!"
 みんながそう考えた。勇気が体を満たし、希望に心が燃えあがるのを感じた。
 
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