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獏 論 [幸福の科学アラカルト]より『虚業教団』(関谷晧元著)を全文掲載します。

※本文掲載につきましては著作者である関谷晧元氏ご本人より許可を頂いております。
 また本書籍をWEB上で閲覧可能にして下さった獏論氏のご尽力に心よりの感謝を申し上げます。

「『虚業教団』〈幸福の科学〉で学んだものは何だったのか」関谷晧元著(現代書林)

第5章  さらば、〈幸福の科学〉よ
 
  紀尾井町ビルヘの入居契約が最後の奉公
 
 阿南事件のあった八八年から八九年にかけての冬は、寒く長いものに思われた。
 その年の一月、昭和天皇の崩御があった。二月には政界、財界、官界を巻き込んだリクルート疑惑で、リクルート元会長が逮捕されている。また、新聞やテレビのニュースでは埼玉県で頻発していた幼女誘拐殺人のことが連日報じられていた。
 バブル経済の真っ最中だったが、暗いニュースがつづいた。物質的に豊かにはなったが、人の心はますます荒廃の度を深めていくようだった。その荒廃から立ち上がるべく、新しい価値を求めた私たちの運動。そこに、私はもう希望を見出せなくなっていた。
 
 心が重く沈む。春はなかなか釆ないように思われた。
 しかしバブルが膨らみつづけていたように、〈幸福の科学〉も着実に大きくなっていった。三度目の拠点となっていた西荻窪の地下の事務所もすでに手狭になっている。さて次の事務所はどうしよう、という話がチラホラ出ていた。またまた私の出番である。
 駅前の七階建てビルが空くと聞いて当たってみたが、宗教団体はお断りとアッサリ振られてしまった。
 西荻窪にしっかり根をおろし、ここを神理伝道の拠点にするというのが、〈幸福の科学〉の最初の決意だった。
「場所など問題ではない。素晴らしい教えさえ説きさえすれば、地球の裏側からでもここへ尋ねてくるようになる。だから、この西荻窪が聖地なのだ。天理教ができて天理市になったように、〈幸福の科学〉がこの町の名前を変える日がきっとくる」
 
 はじめの頃、西荻窪への大川の入れ込みようは大変なものだった。
 しかし主宰先生の言うことは、すっかり変わってしまった。
「こんな田舎に何でいなければならないんだ。政治家とのコンタクトも、これからは必要になる。中央へ出たい。高級霊からの通信も、それがいいと言っている」
 大川に何か野心があるなら、便利屋程度にしか見られていない私が、何を言っても耳を傾けはしないだろう。「高級霊からの通信」という切り札があるかぎり、どんな正論も通じない。高級霊の指示だからと、その野心を達成しようとするだろう。
 "どうせなら、何でもしてやろうじゃないか"
 そんな気持ちになっていた。
                                    
 新宿三丁目に手頃な貸しビルがあった。宗教団体を表に出さず、出版社として下交渉すると間もなく OK が得られた。そこを第一の候補として、次にもっと思い切りすごいところを狙ってみた。それが 「紀尾井町ビル」 である。
 千代田区紀尾井町に建設が進んでいた地上二六階建てのこのビルは、当時ビジネスマンの話題の中心であり、あこがれの的だった。東京の一等地ではもはや入手不可能な広いフロア、皇居や永田町にも近い地の利。賃貸料も月何千万円という単位である。そこに入居することは、トップ企業の証明であるかのように思われていた。
 "一つ、あそこを狙ってやろうか"
 
 新宿のビルの下交渉で親しくなった不動産業者に相談すると、たちまち目を輝かせた。契約成立となれば、手数料だけで二〇〇〇万円を越えるのである。しかし金を出せば誰でも入れる、というわけではなかった。権威という付加価値をつけたいビル側(大京)の内容審査は厳しく、やっと名が売れ始めたばかりの宗教団体に簡単に貸してくれるとは思えなかった。
 
 とりあえず本部に相談すると、大川は身を乗り出してきた。ダメでもともとではないか、とりあえず挑戦してみよう。 その気になって、大いに私を励ましてくれた。中小企業が、一気に一流企業の仲間入りをするのである。会の礎として献身してきた私にも、それは愉快なことである。
 大京の事務所へ行くと態度こそ丁寧だったが、こちらを軽く見ているらしいことは、私にも推察できた。〈幸福の科学〉などという名前は聞いたこともないのだろうから、それもしかたあるまい。この敵をどう攻略してやろうか。私はいつの間にか、"紀尾井町ビル入居"をゲーム感覚で楽しみ始めていた。
 
 次の折衝のときは、建設中のビルへ案内された。まだ骨組みしかなかったが、鳥カゴのようなエレベータで二一階まで昇った。物凄い恐怖と、春とはいえ、寒々とした曇り空だったことをよく覚えている。東京を睥睨するような、素晴らしい見晴らしだった。
 あんな高みから見おろしたら、人の心や生活はますます見えにくくなるだろう。
 今にしてそんなふうに思う。しかしあのときの私は、そんなことを感じるゆとりはなかった。高所恐怖症者のように、自分の高さが怖くてしかたなかった。
 
 事務所に帰った私は、見てきたことをさっそく大川や幹部連中に話した。私自身いくらか興奮していたかもしれない。当初は夢物語でしかなかった。それが次第に、大きな期待となって膨らんでいった。
 ついに高級霊からの指示があった。
「高級霊から指示が下り、九次元霊全員が新宿ではなく紀尾井町ビルに移れと言ってい
る」
 ある朝、そんな神示が大川から披露された。
 
 ご存じない方のために言っておくと、九次元というのは人の霊としては最も進化した人々のいる世界で、仏陀、キリスト、アラー(高橋信次)、モーゼ、孔子、ニュートンなどが九次元霊である。その霊たちがこぞって、「紀尾井町ビルに移れ」 と言っているという。 私にとっては、いよいよ話が面白くなってきた。
 
 例の業者と作戦を練った。まず、新宿のビルのほうで内諾をとり、その信用で大京側を落とそうというものだった。
 じきに大京から、もう少し具体的に調査したいと言ってきた。
 今度は細田局長をともなって大京を訪れた。質問は以前と同じだったが、私にはピンとくるものがあった。私たちは、事務所としては最高の場所にある一八階を希望してその日の交渉を終えた。[写真169]
 
 外に出ると、細田が言った。
「ウチのスケールでは、ちょっと無理じゃないかね」
「いや、これはOKですよ。間違いない。ただね、一八階は貸せないが、三階か四階ならいいと必ず言ってきますよ」
 まだ小寒い陽射しの中を、私たちは西荻窪の小さな事務所へと急いだ。
 そこに入居することは、トップ企業の証明であるかのように思われていた。
 これが、〈幸福の科学〉における私の最後のご奉公になった。しかしそれを今、複雑な気持ちで思い出す。この紀尾井町ビルが、会の拡大路線に火をつけてしまったのではないだろうか。四月になると、高級霊から大川に「伝道の許可」 が与えられ、会員獲得へ盛んに檄が飛ぶようになった。
 
 
  「光の天使」 から 「光の戦士」 への変質
 
 一九八九年(平成元年)は、学習団体から伝道団体へと〈幸福の科学〉がその性格をハッキリと転換した記念すべき年である。
 人材の用い方にも、拡大路線がはっきり現れてきた。
 中原や阿南がいなくなり、かわって大川が耳を傾けるようになったのは、営業や組織づくりのベテランの声だった。○○生命営業本部長の黒木文雄、熊本で不動産業者として成功していた坂本頼男、創価学会で会員集めに活躍した大沢敏夫などが、会を動かし始めていた。
 
 大沢敏夫の登場についても、私は内心忸怩たるものがある。
 会の発足記念座談会で、大沢が 「リュウホウ先生、リュウホウ先生」 と発言したことはすでにお話しした。その後も大沢からは、「リュウホウ先生の下で活動したい」 というようなアプローチが何度かあった。しかし申し出は、やんわりと拒絶されている。彼の辣腕に会をかきまわされるのを、大川は心配したのである。
 
 会の基礎が固まり、拡大がテーマになって、大川が思い出したのが大沢だった。
 あれほど敬遠していた大沢に連絡をとり、職員になる気があるかどうか確かめよという指示があった。その交渉役がまた私にまわってきた。
 すでに私は、異を唱える気力も失っていた。会全体にも、ワンマン社長というより神として、その言葉には絶対服従であるという暗黙の了解ができつつあった。
 大沢との話はうまくまとまり、まずは相談役という立場で〈幸福の科学〉を応援してもらうことになった。
 
 本部には、草創期の情熱とはまた違った熱気がみなぎっていた。
 そんな雰囲気の中で、あるとき関東地方の青年部の集会が開かれた。そこでは、私が講演することになっていた。拡大路線をひた走る会の将来を危惧していた私は、反省についてじっくり語ってみたいと思った。
 ご存じの方も多いと思うが、〈幸福の科学〉では大川の説く「現代の四正道」が教義の柱になっている。「愛」「知」「反省」「発展」の四つを幸福の原理として、自らの心を探究していこうという教えである。
 
 まわりが発展と知ばかりだったから、私一人ぐらいは反省を説かなければという気持ちだった。反省こそ自己確立の最短コースであると、事あるごとに私は述べていた。自分の人生を振り返ることが、一番の修行法であり、また千に一つの間違いもないということを、私は講演会のたびに繰り返し強調してきた。
 だから、この点にかぎっては私は青年部にひどく受けが悪かった。理由はハッキリしている。〈幸福の科学〉の会員、とくに若い会員たちは、反省など大嫌いだったのである。そんな面倒なことは避けて通りたかったのだ。
 性懲りもなく、この日も私は反省の必要を訴えた。
 
 私の話が終わると、関東地方の世話役だった俳優の北原宏一がマイクの前に立った。彼もまた反省の嫌いの部類だった。
「反省など要らない。〈幸福の科学〉にこんな教えがあるのがおかしいんだ」
 何人かの委員がハッとして私のほうを見た。
「おまえたちは若いんだ。反省なんかしているヒマがあったら、外へ出て何でもいいからやってこい。何でもいいから会のために行動しろ」
 こんなアジテーションが若い会員には受けた。世話役といえども部外者の北原が、本部講師の講演にイチャモンをつけるなど、本来なら間違ってもあってはならないことである。しかし"会のため″と言えば、それも許されてしまう。そんなところにも、学習団体から伝道団体への会の変質が現れていた。
 
 私の記憶では、この北原が〈光の戦士〉という言葉を最初に使ったのではないだろうか。ある集会の席でこう発言したのである。
「私は〈光の天使〉にはなれないかもしれない。しかし〈光の戦士〉になら、なれる。喜んで、会のために戦う〈光の戦士〉となりましょう」
 それ以降、〈光の天使〉よりも〈光の戦士〉のほうが、この会のアイデンティティーを示す言葉として一般的になっていく。
 
 大川の言う〈光の天使〉とは菩薩であり、利他行の実践者のことである。一方、〈光の戦士〉は伝道者、ありていに言えば新しい会員を獲得し、たくさんの人を集める活動家である。
 天使から戦士へ。これほど〈幸福の科学〉の変質を端的に物語るものがほかにあるだろうか。後のフライデー事件の際に示された、天使とは思えない攻撃的な姿勢も、じつはここに始まっていたのである。
 北原の演説に沸き立ち、目を輝かせている若者たちを、私は講演者席から淋しい思いで見ていた。この会での私の仕事はもう終わったのかもしれない。去るべきときを、私は漠然と予感した。
 
 
  必然的だったフライデー事件への道
 
 私たちの〈幸福の科学〉では、大川隆法の説く「愛」「知」「反省」「発展」の四つが幸福の原理とされた。しかし今の会には、「発展」だけが残り、ほかの三要素はすっかり抜け落ちてしまったという印象が私には強い。
 
 まず、愛。主宰先生には素晴らしい愛の言葉がある。しかし、愛の実践はどこにも見つからなかった。実践なき愛に何の意味があるだろう。 "与える愛" などという言葉は知らなくても、生活の中で自然にそれを実践している人たちのほうが、はるかに高次元の魂である。
 自宅前の道を掃くついでに、隣の家の前も掃いている主婦。電車の中でお年寄りに席を譲る少女。夜遅くまで同僚の残業を手伝ってしまうサラリーマン。大川の本を読んで愛の発展段階をおぼえる前に、会員はそういうありふれた愛の実践をおこなっているだろうか。もし、"伝道は与える愛の実践です" (大川きょう子 『愛を与えることの幸福』)などと言うのなら、あまりにも人を喰った話ではないか。
 
 次に、知。私たちはこれを求めてきた。そのために学習団体をつくった。しかし大川が導入した試験制度は、彼の神理を一方的に受け入れるだけの "受験勉強"に学習を変えてしまった。考えるという、本来の学習は必要ではなくなったのだ。
 ── 宗教法人 「幸福の科学」は"人間にとってほんとうの幸福とは何か" というテーマを考えていく人びとの集いです。
 会の出版物にはそう書かれている。しかし自分で考える人間は、阿南のように去っていかなければならない。〈幸福の科学〉では考えてはいけないのである。
 
〈幸福の科学〉の優等生になりたい、試験でいい成績をとって表彰されたい読者のために、かつての採点者として、受験テクニックをご披露しておこう。回答には、体験的な含蓄のある話は避けること。霊言集の暗記に精を出し、抽象的な理論を展開し、できるだけきれいごとで終わらせること。実人生の体験から神理を語るようなことは、ゆめゆめしてはならない。どんなに神理に迫っていても高く評価されない。
 
 さて、三つ目は反省である。イエスも仏陀も最初に反省を訴えた。ときには、それを厳しく強いてもいる。大川も幸福の原理の一つに反省を挙げた。                 [写真178]
 自分の心を見つめる反省こそ最高の修行法である、と説いたのは高橋信次である。想念帯の曇りを反省によって取り除いていけば、誰でも本源の神に通じることができる。それが彼の教えの核であった。大川が反省を挙げるのも、こうした高橋の教えの影響を強く受けているからだろう。
 
 しかし〈幸福の科学〉には何の反省行もなかった。そこが大きな問題であると、私は常々感じていた。最近になって九〇年二月の 『実践反省法講義』のテープを聞いてみたが、そこにも、世間で言われているような"軽く浅い"説法があるだけだった。
 この講話でも大川は、反省が天上界につながる絶対条件であると一応は述べている。高橋信次そのままだから、そんなことは高橋の本を読めば誰にでも言える。しかし知らない人はここで、「大川隆法はすごい」と思ってしまうのである。大事なのはそんな理屈ではなく、ほんとうの反省があるかどうかである。
 では、大川の反省法とはどのようなものか
 
①「小欲知足」を理解しなさい。
②他のせいにするな、原因はすべて自分にあると理解しなさい。
③自分の欠点を修正していく努力が大切であると理解しなさい。
 
 この三つが講義の柱になっている。頭で理解することと反省とは、まるで違うはずだが、それは措くとしよう。講義の後に、大川による反省瞑想指導がある。
「ハイ、足ることを知らないでいた自分について思い出してください」
 そして、一五分ほど無言がつづく。そのあいだ参加者は、足ることを知らなかった自分を必死で思い出しているのだろう。
「過去、他人のせいにしていたことがなかったかどうか、思い出してみてください」
「ハイ、自分の欠点を直す努力をしたかどうか思い出してください」
 
 信じられないことに、これが 「実践反省法」 のすべてだった。なんとつまらない反省であろう。こんなものでは、そこにいた全員が、もうそれっきり自分からは二度と反省などしないことは断言できる。反省といっても、〈幸福の科学〉 ではこの程度なのだ。
 反省のないところに、正しい発展はあり得ない。
 あのフライデー事件も、反省なき発展の結果ではなかっただろうか。
 
 
  これがフライデー事件の真相だ
 
 あのフライデー事件における〈光の戦士〉たちの行動を思い出してみよう。
 フライデー事件の背景となったのは、大川が九〇年に発表した 「サンライズ計画」 、翌年の九一年にブチあげた 「ミラクル計画」 による会の極端な膨張である。
 私が退会した八九年には実数で一万数千人の会員がいた。それが九〇年になると、わずか一年間で一七万に増えている。
 
 さらに 「ミラクル計画」 では、九一年に一〇〇万人、九二年に三〇〇万人、九三年には会員一〇〇〇万人を目標に設定した。正常な判断力があれば、この計画そのものに、すでに異常が潜んでいることに気づくだろう。しかし、仏陀が掲げた目標である。会員を動員し、出版、新聞、テレビ・ラジオを使った大キャンペーンが打たれる。その経費が二〇億円とも言われている。その結果、九一年には二〇〇万人を突破し、九二年をすぎると、会員のあいだでは五〇〇万、七〇〇万という数字が噂されるようになる。
 仏陀の宣言した目標は着実に達成されているのである。
 
 もし、この数字がほんとうに達成されていると信じる会員がいたら、おめでたいと言うしかない。 私のところへ集まってくる話では、実数はせいぜい一〇〇万人。しかも、そのほとんどは、おつきあいで入った月刊誌だけの誌友会員である。熱心な会員と呼べるのは一〇万人程度ではないだろうか。大川の説く神理に実践がともなわなかったように、会員の数も実態のともなわない数字でしかない。
 それでも目を見張るような発展ぶりである。八六年に開かれた発足記念座談会の聴衆はわずか七〇人。それが五年後には、東京ドームを満席にするのである。たいへんな躍進と言わなければならない。
 
 しかし、出るクイは打たれる。短期間に急成長を遂げ、紀尾井町ビルのワンフロアを借り切って、華々しいキャンペーンを繰り広げている新宗教に、マスコミが噛みつかないはずがない。霊能力者ならずとも予想できることである。
 案の定、〈幸福の科学〉バッシングが始まった。
 
 "御生誕祭" の二ヵ月後、写真週刊誌『フライデー』に批判的な連載記事が掲載される。
「急膨張するバブル教団『幸福の科学』/大川隆法の野望」。記事は悪意と中傷に満ち満ちたものだった。すでに自分の生活に戻った中原幸枝のプライベートにまで、無遠慮にカメラが向けられた。なかでも大川を激怒させたのは、「学生時代の大川はうつ病で精神科医にかかっていた」 という箇所だった。
 
 名誉棄損罪で出版元の講談社と、フライデー編集長を東京地裁に告訴。講談社には三〇〇人あまりの会員が抗議デモをかけ、同時に抗議電話が殺到。ファックスも絶え間なく送られてくる抗議文に占領されて、業務にも支障をきたす事態になった。
「これは宗教戦争であり、聖戦である」
 大川はそう宣言している。
 
 前後の会の動きを、私が知り得たところをもとに再現してみるとこうなる。
 まず、会としての対応を検討するために、紀尾井町ビルの本部に課長以上の幹部四〇名ほどが招集された。会議は前後二日におよんでいる。最初は、「こんな写真誌の記事は無視しよう」 という穏健な意見が大勢を占めていた。それに対し、大沢敏夫ら数人の幹部が「そんな意気地のないことでどうするか」「今こそ仏陀様に恩返しするときである」と強硬に主張して譲らなかった。
 両者の議論は白熱し、会議というよりはケンカに近い様相を呈してきた。
 
 このとき穏健派を代表していた幹部の一人、前川節が主宰室に呼ばれている。何事かを大川と話し合い、再び席に戻った前川はすっかり大沢グループに豹変していた。これがその場の情勢を一変させる。"正義のための闘い"へ向かって動き出したのである。
 この会議の最中、大川家から二度ほどファックスが送られてきた。
「大衆受けするよう整然とした隊列をつくること。目立つように盛大におこなうこと」
 といった内容が記されていた。講談社への抗議デモの具体的やり方を、主宰夫人が指示してきたのだ。おそらく抗議デモの一件は、大川夫妻と大沢のあいだで、あらかじめ決定されていたのだろう。
 
 会議の参加者は、そのまま中野にあるオリンピックビルの研修場へ移動した。そこにはすでに、関東支部の会員三〇〇人ほどが動員されていた。彼らを前に、大沢、そして大川が拳を振り上げながら熱烈なアジテーションをおこなっている。
「我われは、魔に対して断固として闘う。キリストをはじめ、天上界の天使たちもそうせよと言っている」
 と、天狗の団扇を正面に突き出して宣言したのだ。
 右の頼を叩かれたら左の頼を出せと説くキリストが、まさかそんなことを言うとも思えないが、霊言とはまことに便利なものではある。かくして、講談社へのイヤガラセ部隊の出陣となった。
 
 しかしこの滑稽劇にはまだ続きがあった。デモ終了後、会員たちは再び研修場へ戻り、講談社への抗議文を書かされた。ほとんどの参加者はそのとき渡されたコピーで、はじめて記事を読んだ。主宰先生の結婚式の写真なども載っていたから、大川の私生活については何も知らされていない会員たちは、大喜びで読みふけったという証言もある。デモで疲れているのに、さらに 「抗議文」 を書けという。被害を受けた感じもしないので何を書いていいかわからず、戸惑った参加者も少なくなかったらしい。
 
 こうした会の対応が世間の批判を浴びると、景山民夫らが中心となって 「講談社=フライデー被害者の会」を結成し、市民運動を装いながら抗議を法廷へ持ち込んだ。
 もちろん市民運動でも何でもない。言うまでもなく、〈幸福の科学〉本部の指示でつくられ、命令にしたがって動いている。また、抗議電話や抗議ファックスに関しても、「止むに止まれぬ気持ちから会員が自発的におこなったもの」 と会は釈明したが、たとえ止むに止まれぬ気持ちからでも、本部からの指令に基づいていたであろうことは断言してもいい。会の体質からして、大川の指示がなければ何一つできないのである。
 
 阿南事件で残った古い会員も、フライデー事件をきっかけに多くが会を去っている。拡大拡大できた会員の獲得もかげりが現れ、資金面で行き詰まっていると聞く。フライデーは、まさに〈幸福の科学〉のつまずきの石になった。景山民夫や小川知子らが、もうしばらくの間は続けるであろう熱唱にもかかわらず。
  
 そこで思い出すのが、昭和三十一年に起きた立正佼成会の読売事件のことだ。
 昭和三十一年一月から、読売新聞は大々的な反・立正佼成会のキャンペーンを張った。発端となった土地買い占めは、会そのものとは無関係だったことが間もなく判明するが、キャンペーンは教団幹部への個人攻撃や教義内容の批判へ発展し、およそ三ヵ月間にもわたってつづいた。三六万の信者世帯をわずか一年で三〇万に激減させたというから、その激しさを想像できる。
 
 これに対し立正佼成会は、関係機関に内部調査の結果を配った以外は、完全に沈黙を守った。「読売の記事がウソなら佼成会は告訴すべきではないか」 という声にも、報復は宗教団体のとるべき道ではないとして動こうとしなかった。
 攻撃の止んだ四月になって、次のような文章が 『佼成新聞』 に発表されている。
 
「われわれは批判に対してなんら躊躇する必要はないし、むしろ私どもに足りない所があるなら、もっともっと新聞に書いて、諌めていただきたいくらいです。衷心から感謝申し上げると同時に、私どもはいつでも多くのかたの批判をありがたく頂戴し、自分に至らないところがあれば、即座に直すだけの寛容さがなければなりません」
 そして、自分たちを高めてくれる師として、"読売菩薩"と呼んだのである。
 
 このようなものを反省と言うのではないだろうか。これに反し、
「反省とは自らを省みるということ。他を責めるという気持ちから、自らをもう一度振り返ってみる。こういう考えが大事です」(『不動心』)
 こんな一般論を、いくら口先でしゃべってもダメなのだ。
 高橋信次は 「反省こそが法なのだ」 と繰り返し語っている。「人につかず、組織につかず、法につけ」 は生前のログセだった。フライデー事件は、人につき、組織につき、かわりに法をなくしてしまった会の実態を、衆目にさらしたのである。
 
 仲間と一緒に夢を抱き、命懸けでつくりあげてきた〈幸福の科学〉。こんなものをつくるために、私たちは人生をかけたのか……。
 それはすでに、私たちがつくろうとしたものとは、まるで違うものだった。
 中原よ ──。君は 「信次先生のご逝去以来、ようやくの思いで心の師となる人を見つけることができた」 と私たちに語った。あのときの輝きに満ちた君の表情を今も思い出す。しかしその人は、少なくとも私たちの心の師ではなかった。それでは、いったい何が私たちに、あの青年を心の師と思わせてしまったのだろう。
 中原よ。あれほど厳しく自分の心を見つめようとしていた君も、阿南も、私も、肉体を持つ誰かに神を、生きる指針を、見いだしたかったのだろうか。
 
 
  〈幸福の科学〉との決別
 
 八九年の六月十五日に、私は 「嘆願書」 を提出した。
「私はかねてより、自分の器の小ささを自覚しておりました。したがっていつも、幸福の科学のスタート時点にささやかなお手伝いぐらいしかできないと決めて頑張って参りました。今ちょうど幸福の科学は最初の走り出しが終わり、これからは発展がとめどもなく続くという時点にきていると考えます。私の役目もひと区切りついた今、健康上の問題もあり六月一杯で、全ての役職、職務を降りて一会員とさせていただきたく嘆願いたします」
 
 このときは、退会しようというハッキリした気持ちがあったわけではない。役職についていることが、もう苦痛でたまらなかったのである。ロンドンへ渡り、医師にかかりながら、しばらく静養することだけは決めていた。
 大川も 「それならしかたない」 と一ヵ月の休暇をくれた。
 
 七月に入って、大宮で大講演会が催された。会場の入口には長い列ができ、聴衆は数千人にもふくれあがった。その日は、私が司会者をつとめることになっていた。
 "先生には申し訳ない"
 大川の講演を聞きながら、そんなことをしきりに思った。いつものように演壇の隅のイスに座り、聴衆に対していた私の目に映る人々の顔、顔、顔。そこにいるすべての人が、なぜか愛しくてたまらなかった。
 
 講演会は大成功だった。無事に終了したときに、いつにも増してホッとした。自分の役目がすっかり終わりでもしたかのような、快い虚脱感をおぼえた。
 翌日も、その翌日も、私は出勤しなかった。
 そのまま出立の日がきて、私はロンドンへ向け機上の人となった。
 ロンドンでは晴れあがった青空が私を歓迎してくれた。本部の細田事務局長に宛てて正式な辞表を送ったのは、一ヵ月後のことである。二週間ほどすると、一〇〇人近くいた職員全員からのラブコールが届いた。「早く戻って来て、また一緒にやりましょうよ」 と、趣向を凝らして寄せ書きされた七枚の色紙。それを手にして、涙が出るほど嬉しかった。
 しかしそのときは、もう私の心は決まっていた。
 これからは一人で充分だ。一人で修行を重ねていこう ──。  
 
 
 おわりに

 八六年に、新宿の割烹料理店で大川先生に会ってから三年半。私は素晴らしい体験をさせていただいたと思う。私にとって、それは二度目の青春であった。霊性時代の樹立という情熱に燃えた日々。一途に情熱を傾けるものがあるとは、なんと幸せだろう。
 いまは、一九九三年の秋である。大川先生と最後にお会いしてから、すでに四年の歳月がすぎている。
 
 ロンドンから戻った私の顔を見て、先生は嬉しそうに笑いながらこう言った。
「関谷さんにはうってつけの仕事があるんです。テープと書籍を専門に販売するミニショップを、キヨスク方式で全国展開してもらいたいんだよ」
「いや、それは……」
 という私に、
「いや、こういうことは関谷さんしかいないんだ。実践で頑張ってください」
 たぶんそのときはじめて、私は大川隆法という人に、かすかな憐憫の気持ちをいだいたように思う。                                                   
 この四年のあいだには、〈幸福の科学〉にも私にも、いろいろなことがあった。
 しかし、神理探究の団体〈幸福の科学〉を離れた私は、かつての求道心を忘れただろうか。霊性時代の樹立という理想が薄らいできただろうか。
 いや、むしろますます求道心に燃え、より強く理想を求めている。
 
 私はこの本の中で、大川先生と〈幸福の科学〉について批判的に語ってきたかもしれない。その心は、大川先生への個人崇拝と、あまりにも露骨な拡張路線に対する、OBとしての危倶である。〈幸福の科学〉はダメだ、と言いたいのでは決してない。それどころか、
〈幸福の科学〉にはまだまだ大きな役割があると信じている。
 これまでの自己中心的なご利益信仰の段階から、精神的な世界へ覚醒を促す役割。物質欲に支配されず、心にしたがって生きる理想を説く役割である。
 
 霊性時代の樹立という〈幸福の科学〉用語を繰り返し使ってきたが、それは、この理想が社会的にも実現するときを意味している。
 大川先生は、この理想をわかりやすく、ときには 「面白おかしく私たちに教えてくださったのである。たとえ世間で言われるように、先人の言葉のパッチワークであってもいい。
 浅く、軽い教えでもいい。もしかすると、批判記事を書いた出版社へデモをかけるのもいいかもしれない。それによって、この人たちが言っている霊性時代とは何なのだろうと考える人が一人でも増えるなら。
 物質的な原理を超えた理想に、人々の眼差しを導く。それが〈幸福の科学〉に、神が与えられた会の存在理由ではないだろうか。
 
 いま、改めて、愛をもって幸福の科学の存在意義に拍手を贈る。
 最後に、私と同じように、幸福の科学を卒業した数百万人の人達、そして、さまざまな宗教団体の中で疑問に苦しんでいる人や、多くの宗教難民にはこう伝えたい。
 信じなければならないのは、教祖や教義以上に、自分自身の〈善我〉なのだ、と。
 心の奥底に埋もれていた〈善我〉にこそ、神が、法が、すべての聖書・仏典が、既に内在されていたのだ、と。そして、自分が変容してこそのユートピアなのだ、と。
 一時は、誰の心も難民としてさまよい師を求めた。が、しかしそれらはみんな必要なプロセスであった。我ら求道者の命は、まさに 〈日々是転〉。一日一日新しく生まれ変わって成長していく。            
 
 汝(己)自身を知る(悟る)ために ──
 新しい学習も必要であった
 賢人の訓示も、大いなる参考とはなった
 いままで、外部から何かを吸収し続けてきた
 しかしそれでも、変容し切れなかった自分 ──
 最後にもう一歩
 生きたこのままで転生し
 理想の人生を生きたいと本心から望むなら
 己自身の 〈内なる光〉 を掘り起こそうではないか!
 素直に自分を振り返ってみよう
 過去の幾つかの出来事の一つ一つが
 その出来事こそが
 悟りに至るための、最高の神示ではなかったか?
   神仏の、光求めて幾星霜、悟ればほとけ、我が心なり  高橋信次
 
 私はいま、内在された偉大なる仏智と出会うための自己啓発法、D・ I ・L (ディスカヴァー・インナー・ライト)の研究に打ち込んでいる。研究成果をいずれご披露できる日もあるだろう。
 私にこのような道を歩ませてくれたのも、決して皮肉ではなく 大川先生であり、〈幸福の科学〉であった。幸福の科学を卒業したからこそ、現在の自分があると感謝している。
 願わくば幸福の科学自らが、でき得るならば私の初期の理想のように、独創性をもった〈神理学習学校〉に軌道修正して、愛ある上昇飛行されんことを祈るばかりである。
 
 
関谷晧元 著
 
虚業教団
〈幸福の科学〉で学んだものは何だったのか
(c) Kougen Sekiya 1993
 
1993年12月31日 初版第1刷
現代書林 ISBN4-87620-700-3 C 0036
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 
著者略歴 
1936年新潟県生まれ。
セールスマンを経て、67年、自動車販売会社フタバ商事(株)を設立。22年間社長業。
86年、大川隆法氏と出会い、すべてを処分して、〈幸福の科学〉の基礎造りに励み、初代総務局長、関東支部長のほか、本部講師、出版社の重責も兼任。89年10月退会。以後 4年間神理の探求を深め、93年 〈D.I.L探求会〉 を創立。
自分の過去の出来事こそが最高の師であるとした新しい自己啓発法を探求中である。

 
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プロフィール
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オーケー(このブログはリンクフリーです)
性別:
男性
自己紹介:
宗教団体「幸福の科学」に約二十年間在籍していた元信者です。幸福の科学が信者に見ないように指導している内部告発、退会者からの情報や意見を、現信者である親友Kさんのための参考資料としてまとめていこうと思っています。

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